市指定文化財 有形文化財・民俗文化財

有形文化財    徳治の碑 聖観音銅像 脇差
懸仏 細布
南部領平田村仙台領唐丹村境絵図 釜石新道図 文政十三年石応禅寺境内及び幕末ころの釜石湊絵図
制札 嘉遯翁遺愛碑 アーチ橋梁
脇差 懸仏 懸仏
正一位尾崎大明神扁額 大橋磁石岩絵図 天照御祖神社奉納額三面
熊野神社俳句奉納額

尾崎神社の鋳鉄製宝剣

釜石製鐵所山神社鉄製扁額

本郷の半鐘 尾崎神社の鋳鉄製扁額 懸仏鉄造聖観音坐像
三浦命助関係資料 白牛頭天王神社鰐口 仮宿三貫嶋神社鰐口
釜石鉱山山神社山神碑 魹供養碑  
有形民俗文化財 オシラサマ オシラサマ 鍛冶神掛図
※ 市指定無形民俗文化財については、かまいしの民俗芸能をご覧下さい。
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有形文化財


とくじのひ
徳治の碑
徳治の碑
市指定文化財 昭和45年2月20日指定

この碑は鎌倉時代の末、徳治3年(西暦1308年)に作られたもので、昭和2年石応禅寺前住職瀬川午朗氏が、現在の児童公園山裾から発掘した。

 この碑のような形式を板碑といい、中央に刻まれた文字は梵字でキリークと読み、阿弥陀如来を意味している。
 三陸沿岸北部にはこの板碑より古い碑はなく、当地方に板碑文化の導入を知るうえに重要な碑である。


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せいかんのんどうぞう

聖観音銅像
聖観音銅像
市指定文化財 昭和45年2月20日指定

 この聖観音銅像は、気仙郡高田に生まれ9歳の時に釜石に移住した鈴木治兵衛直利が享保10年(西暦1725年)11月15日に石応禅寺に奉納したものである。

 直利が仏道に帰依し陸奥、出羽二州、(現在の岩手、宮城、山形、福島)にわたって当時著名な66の寺院に観音像や、聖観音銅像7体及び経文(大乗妙典)の奉納にあたって、この聖観音銅像の台座にその寺院とその時の住職の名を刻み入れた。
 これによって、現在廃寺になっている寺院を含め、当時の主な寺院の住職等を知ることができ、東北仏教史上得がたい文化財である。




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わきざし

脇差(銘 奥南部栗林住神清照)
脇差
市指定文化財 昭和53年11月28日指定

 南部藩鉄山開発年表には、寛文3年(西暦1663年)遠野通栗林鉄山の記事がありまた享保年間栗林神の前で「ほど」(火床)を用い延鉄を精錬した記録がある。

 鉄の産地には刀工が移住してくるが、この脇差は、奥南部栗林住神清照と記銘があることから、釜石地方での刀工を知る上に貴重な資料で、脇差としても県内で経眼する唯一のものである。

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やり

(銘 奥州南部神清照)
槍
市指定文化財 昭和53年11月28日指定

 この槍は、奥州南部神清照作の記銘があり、脇差の栗林住神清照と同じく、釜石地方で刀工のことを知る貴重な資料で槍としては県内で唯一のものである。

 現在栗林町に、屋号を「神の前」という家があり、昔から鍛冶職人であったということから、神清照の子孫と思われる。




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かけぼとけ

懸仏 懸仏
市指定文化財 昭和53年11月28日指定

 懸仏は、鎌倉時代から室町時代に最も盛んに製作された。この懸仏は記銘はないが、室町時代以前のものと思われる。

 野田家は、大永3年釜石野田に来住とあり、所伝として、また信仰としてもってきたものとみられ、「観音さま」といっているが、肉盛の仏像の形から見て大日如来とも思われ、乾漆技法の懸仏は珍しく、貴重なものである。

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せばぬの

細布
細布
市指定文化財 昭和53年11月28日指定

 久保家に保存されているが、その経緯は不明である。

 「細布」はもと南部藩領であった鹿角地方の名産で、古くから書かれて有名となっている。
 この麻布に書かれた「錦木由来」は、細布を織る長者の娘と、錦木柴を売る青年の悲恋物語で、「錦木塚」は、今も秋田県の十和田町にある。細布についてい るコヨリの「与治右衛門」は佐野与治右衛門かは不明であるが、この細布は盛岡資料館のも のより優美で、木綿以前の生活衣料史や民俗資料としても貴重なものである。




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なんぶりょうへいたむらせんだいりょうとうにむらさかいえず
南部領平田村仙台領唐丹村境絵図

南部領平田村仙台領唐丹村境絵図
南部領平田村仙台領唐丹村境絵図
市指定文化財 昭和53年11月28日指定

 久保家は、平田村の肝いりをした家柄で、この境絵図には元禄14年の年号が記されている。

 元禄14年4月の絵図面は、南部、仙台両藩が境を改め、絵図面を取替えし、唐丹村側を書いたもので、元禄14年7月の絵図面は、平田側を書いており、両方とも、藩境の山や海辺の地名、境の印などが明記され、藩境の様子や地名(山地名)を知る上で貴重なものである。


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かまいししんどうず

釜石新道図 釜石新道図
市指定文化財 昭和53年11月28日指定

 釜石の富豪佐野与治右衛門は、釜石から遠野への路を、仙人峠の難路を避けるため、文政5年藩に上申し1年で小川新道をつくった。 その道のりは、52里4丁49間で、仙人峠越えより17里余り短距離であった。しかし、荷振り銭などで生活する甲子村の人々に大きな影響を与え強く反対さ れた。

 この新道の跡は今も確認できるが、絵図面は「小川新道」「仙人道」の道程と道路各地の地名を知る上でも唯一の資料である。

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ぶんせい13ねんせきおうじけいだいずおよびばくまつのころのかまいしみなとえず

文政13年石応寺境内図及び幕末ころの釜石湊絵図
↓石応寺境内図
文政13年石応寺境内図

↓釜石湊絵図
幕末の頃の釜石湊絵図
市指定文化財 昭和53年11月28日指定

 石応禅寺に所蔵されている図で、境内図には当時の石応寺伽藍を中心に周囲の山川、町並みを色彩で描写し、所要の箇所に説明注記している。
 石応寺は享保年間にも火災で焼失し、その後再建された姿と考えられる。梵刹半空にそびえ、寛政年間の大工事なりと石碑に伝えてある。図の上部にこの絵図 作成と関係者の名前が書いてあり、当時の石応寺境内と周囲の地形と併せて住職、肝いり、老名の名を知る上に貴重な資料である。

 釜石湊絵図は、大きく蛇行する大渡川、長い砂浜、十分一役場、石応寺、女坂等の浜街道、釜石街道など大分詳しく当時の釜石の様子が描かれている。
 制作年代その他の注記はないが、三閉伊路程記(文化文政頃)の記録等に近く、これ以降の制作と思われる。当時の様子を知る上に、また釜石村の変遷を示す貴重な資料である。



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せいさつ

制札(天和・明和・捨馬) 制札
市指定文化財 昭和53年11月28日指定

 制札とは高札のことで、室町時代から近世になって最も普及した制札刑事の方式で、百姓町人などに発した掟書き、禁令法度を板札に書いて掲げたものである。
 所有者の先祖は、苗字帯刀を許され、栗林村の肝いりを勤めた人で、制札は大槌代官を通じて渡され管理にあたり、制札の場所は、栗林町沢田の札場という屋号の家の近くであると思われる。

 このうちの一つは釜石市に残っている唯一のきりしたん禁制の制札で、極めて重要なものである。この制札は、幕府がとくに島原の乱後、きりしたん宗門(キリスト教)を禁制とし、訴人は賞し、信者は重罪にしている。
 なお制札は、明治2年代官所の廃止の際に取りはずされている。
 また、明和7年の徒党、強訴、逃散の禁制の制札及び捨馬禁制の制札も現存し、あわせて有形文化財として指定されている。



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かとんおういあいひ

嘉遯翁遺愛碑
嘉遯翁遺愛碑
市指定文化財 昭和53年11月28日指定

 この碑は、葛西昌丕が没してから、3ヵ月後の天保七年(西暦1836年)に、門弟たちが昌丕の偉業をたたえ、その梗概を刻して建てたもので、昌丕の学問の領域と人となりなどが記されている。


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あーちきょうりょう

アーチ橋梁
アーチ橋梁 1号橋
↑1号橋 

  ↓2号橋
アーチ橋梁 2号橋
市指定文化財 昭和55年3月28日指定

 明治政府の工部省によって建設された官営釜石鉱山は、原燃料輸送のため、鈴子〜大橋、途中分かれた小佐野〜小川間の鉄道を、わが国三番目として明治9年(西暦1880年)着工、同13年に完成した。

 このアーチ橋梁は小川山(わらび野)製炭所に至る4.9キロの間に四か所の橋梁がかけられたうちの一ヶ所であり、英人技師3名と毛利重輔により外国の技法でつくられ、この橋梁に35ポンド(17キロ)のレールが敷かれ、英国製の機関車が走った。

 現在は道路として使用されているが、この種の橋梁で残っているものでは、我が国で一番古いといわれている。


アーチ橋梁 2号橋内部
  ↑2号橋内部
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わきざし

脇差(銘 應貫洞長章需盛岡住山内國多以巖鉄造之萬延元年二月日)
脇差
市指定文化財 昭和55年3月28日指定

 この脇差は、山田の貫洞長章が洋式高炉出銑の鉄を原料にして、盛岡の刀工山内藤原国多に鍛えさせた自身の差料で、重要な点は「応 貫洞長章需盛岡住山内国多以厳鉄造之蔓延元年二月日」の添銘である。「以厳鉄造之」とは注文主の貫洞からみて、大橋高炉出銑の鉄であることが知れ、近代製 鉄産業史上極めて重要とされている。県内に保存されている、同工作品9振のうち製作年代が最も古く、かつ保存状態がよく、製作も同工中の白眉である。

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かけぼとけ

懸仏 懸仏
市指定文化財 平成10年7月30日指定

 天台寺門宗に属する釜石の古刹大天山観音寺に伝わる梵天(懸仏)である。円形の銅版に毛彫りで観音像が刻まれてあり、紀年銘は「元禄六癸酉年十一月八日」「釜石村藤原大天山観音寺寳全院」となっている。
 様態は、懸仏を修験道で祈祷に用いる幣帛状に作られており、金箔がかけられている。

 銘にある「寳全院」とは、観音寺七世権大僧都寳全院永源(元禄12(1699)年・63歳で示寂)のことである。

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かけぼとけ

懸仏 懸仏
市指定文化財 平成10年7月30日指定

 様式及び寸法、紀年号とも大天山観音寺に所在するものと同様のもので、ただし銘文は「元禄六癸酉八月十五日」「釜石村藤原谷(善か)行院」とある。

 鈴子家は観音寺同様の宗派であり修験道における同行でもある。世代では善行院、善学院等と称しているものが多い。

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しょういちいおさきだいみょうじんへんがく

正一位尾崎大明神扁額 正一位尾崎大明神扁額
市指定文化財 平成10年7月30日指定

 尾崎神社は日本武尊を祭神とする古社で、源頼朝が奥州制圧後、宮古から当地方までの領主であった閉伊頼基がこの古社を信仰し、没後古社にその亡骸を葬った。

 享保4年(1719)に「大明神」の神号宣旨があり、寛政11年(1799)には朝廷から正一位の御神階を賜った。その折に、園城寺151代長吏であり、京都聖護院門跡の盈仁二品親王染筆の神号扁額を賜ったものである。

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おおはしじしゃくいわえず

大橋磁石岩絵図  大橋磁石岩絵図
市指定文化財 平成18年2月24日指定

 本磁石岩絵図は、野田家に所蔵されているもの で、野田家が文化10年(1813)御山奉行小川清六一行を甲子村大橋磁石岩調査に立ち合い、案内などを行なったことを示す資料である。その内容は、磁石 岩の形状と計測地、ひさご沢、周辺の峯々や大橋地区の状況、調査関係者名などが書き込まれており、鉄鉱山関係資料として欠かせないものであると同時に、こ の磁石岩は今日では崩落で失ってしまいみることができない。このことから所伝内容共に貴重なものである。

 なお、甲子村大橋地区は、享保12年(1727)阿部友之進によって、磁鉄鉱石が発見された地域である。

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あまてらすみおやじんじゃほうのうがくさんめん

天照御祖神社奉納額
三面
(和歌・狂歌・俳句) 
天照御祖神社奉納額・和歌
和     歌

天照御祖神社奉納額・狂歌
狂     歌
市指定文化財 平成22年2月25日指定

 和歌奉納額、狂歌奉納額、俳句奉納額の三面は、天照御祖神社の遷宮にあたり句会が開かれ奉納されたものと思われる。

 俳句奉納額は詠み人に「本唐丹桜山下連」の記載があり、唐丹で句会が定期的に開催されていたものと思われる。当時の文化が当地方でいかに旺盛だったか窺い知ることが出来るものである。

 和歌奉納額には天文学者であり、伊能忠敬の測量碑等を建立したことで知られる葛西昌丕の歌が13首納められており、葛西の多岐に渡る学問への造詣の深さをしめすものである。

天照御祖神社奉納額・俳句
俳    句
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くまのじんじゃはいくほうのうがく

熊野神社俳句奉納額
熊野神社俳句奉納額
市指定文化財 平成22年2月25日指定

 本奉納額は、当市に現存する奉納額の中でも最も古いものの一つであると考えられており、保存状態は良好である。

 40首の句が記されており、蕉門十哲の一人である各務支考の弟子、北越の俳人・暁夢坊や、泉州の俳人・狂雪らが句を残しており、当地の文化が盛況であったことを窺い知ることのできる貴重な資料である。

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おさきじんじゃのちゅうてつせいほうけん

   

尾崎神社の鋳鉄製宝剣

    

市指定文化財 平成24年11月28日指定

 

 安政4(1857)年、盛岡藩士大島高任が大槌通甲子村大橋(現:釜石市甲子町大橋)で日本初の洋式高炉建設に成功した。当時のたたら製鉄と違い連続出銑を可能とした点で、大きな技術革新となった。

 大橋鉄鉱山の出資は山田の貫洞瀬左衛門と大槌の小川惣右衛門、久慈の中野作右衛門によったが、安政6年には御手行(藩営)となり、万延元年には貫洞はお役御免になる。

 日本初の高炉法による出銑に成功した大橋鉄鉱山で製作された奉剣であり、その稼動者たちの名が陽鋳されている点からも、製鉄史上重要且つ画期的成功を証明する歴史遺産として貴重である。

 
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かまいしせいてつしょさんじんじゃへんがく

   

釜石製鐵所山神社扁額

    

市指定文化財 平成24年11月28日指定

 

 官営釜石製鉄所の廃止に伴う払下を受けた田中長兵衛は、横山久太郎の提言により製鉄業を釜石で開始し、明治20(1886)年釜石鉱山田中製鐵所を設立した。
 明治23(1890)年の大阪砲兵工廠の実験で品質的にはイタリアのグレゴリー銑などの劣らないとの結果を得(大蔵省1892)、更なる拡張を目指して いた。そのような中、東京帝国大学教授兼農商務省技師の野呂景義による官営時代の25t高炉の改修提案を田中は賛同し、明治27年その改修に成功した。

 本資料はその時の初湯銑を鋳造し作成されたものである。

 
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ほんごうのはんしょう

   

本郷の半鐘

    

市指定文化財 平成24年11月28日指定

 

 江戸時代中期、飢饉の苦難を祓うため、地元の念仏講信者が奉納したとの伝承がある。

 明治三陸津波、昭和8年の津波、東日本大震災の津波等の大災害や戦時下の徴用危機を乗り越えて現存する、釜石で最も古い時期に属する梵鐘のひとつである。

 
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おさきじんじゃのちゅうてつせいへんがく     
尾崎神社の鋳鉄製扁額   
市指定文化財 平成26年1月17日指定   

 尾崎神社の鋳鉄製扁額は中央に「尾崎社」、左側2行に「慶応元年八月橋野鉄鉱山」と陽鋳(ようちゅう)(浮彫りに鋳出されたもの)されている。
 尾崎神社遥拝殿の鋳鉄製扁額は、橋野鉄鉱山の高炉完成初期に「橋野鉄鉱山」で製作されたと推察される市内において古い扁額の一つである。
 戦争時の金属供給をしのぎ現代に残る貴重な扁額である

 
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かけぼとけてつぞうせいかんのんざぞう     
懸仏鉄造聖観音坐像      
市指定文化財 平成26年1月17日指定   

本懸仏は、鋳鉄製で縁取りをした鏡板に未敷蓮華(みふれんげ)を持ち、蓮台に坐す聖観音像を陽鋳(ようちゅう)している一鋳品である。表面は平版で、裏面にひもをつける仕様になっている。ただし、2箇所あるうちの1箇所は破損している。
 昭和53年に火事により焼けたため現在は銀色に塗装しており、仏像部分は金色に塗装されている。室町時代後期の作とされる。市内にある鉄造の懸仏では本懸仏が一番古く、貴重なものといえる。

 
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みうらめいすけかんけいしりょう    
三浦命助関係資料(三浦命助獄中記・三浦命助獄中記 ・同裏書)

市指定文化財 平成27年3月26日指定 

 嘉永6(1853)年の三閉一揆の指導者の一人として活躍した三浦命助の資料群である。

 『獄中記』は盛岡の牢に入牢し、七年目の元治元年(1864)年に牢死するまでに綴った帳面で、一揆の内情や心情、一揆の経費を記したものや命助の人生観、政治観、経済観、宗教観、さらに家族に対しての今後の処世などが記されている。

 この帳面は宮古のおみのによって家族に渡された。

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しろごずてんのうじんじゃわにぐち    
白牛頭天皇神社鰐口     
市指定文化財 平成27年3月26日指定   

 この鰐口は橋野町和山の及川家の氏神「白牛頭天皇社」に祀られたもので、紀年銘のあるもので、市内の鰐口で最古である。

 青銅製で、中央部撞座を設け、漣華文が鋳されている。

 表面には「寛永七庚寅年三月廿七日」、裏面には「享保四年九月二廿四日」とあり、紀年銘が違うことから、鋳造後に所有者が変わったので裏面に刻みなおしたと考えられる。

 
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かりやどさんがんじまじんじゃわにぐち    
仮宿三貫嶋神社鰐口     
市指定文化財 令和2年2月25日指定    

 仮宿三貫嶋神社鰐口は、釜石市箱崎町仮宿の三貫嶋神社に奉納された鰐口で、記銘の年代から明和5(1768)年頃(江戸時代後期)の作と考えられ箱崎町に現存している最も古い鰐口であり当地域の歴史を知るうえで貴重である。

 背面には記銘があり、上部に「奉納御宝前」、右側に「奥州南部戸郡箱崎浦苅宿与助」、左側に「明和五戊子年四月十六日」線刻されている。

 記銘があることで、この鰐口が奥州南部の箱崎村仮宿の与助が明和5年4月16日に神社に奉納したことが読み取れる。

 
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かまいしこうざんさんじんじゃさんじんひ    
釜石鉱山山神社山神碑    
市指定文化財 令和2年2月25日指定    

  釜石鉱山山神社山神碑はかつて大橋高炉の所在した甲子町大橋の釜石鉱山山神社境内に所在する山神碑である。

 安政4(1857)年11月を示す記銘があり、釜石市近代製鉄産業の歴史の始まりを知るうえで貴重な資料である。

 山神碑は、正面に「山神」、左側面に「安政丁巳年仲冬」と文字が刻まれている。
 安政丁巳」は安政4年、「仲冬」は11月の事である。

 
 
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とどくようひ    
魹供養碑    
 
 市指定文化財 令和3年3月25日指定    

 この石碑は、安政5年3月に両石村の人々によって建立された供養碑で、江戸時代から明治にかけて両石の年中行事であった魹漁の供養のため建立された。
 両石の魹漁は,毎年12月頃から翌年の5月頃まで、明治の大津波前まで行われた。
 漁民達は、北の海から三陸近海に回遊し漁場を荒らす魹のため両石湾頭の三貫島に集まる魹の群れを麻網で捕獲し肉と皮を塩漬けにして、盛岡に駄送した。
 その肉は、食用、皮は細工物として利用されていた。

 本石碑は釜石のみならず三陸沿岸部において魹漁を伝える唯一の碑であり、地域の協同作業により地域経済発展に寄与した魹漁の歴史を伝えるうえで、大変貴重である。

 
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有形民俗文化財

おしらさま
オシラサマ(慶長年紀)   おしらさま
市指定文化財 昭和53年11月28日指定  

 オシラサマは、東北地方に古くからある民間信仰で、金野家では養蚕と目の神様として信仰している。

 縁日は旧10月15日で座敷に飾り、ごちそうを供え、近所親類の人たちもお参りする。その日は新しい衣裳を頭部から1枚重ね着にするので、下の布ほど古く、縁日を俗に御日といい、前主人の命日で昔から主人の逝去によって変わる習わしがある。

 これには慶長14年の年号があって、釜石市内最古のオシラサマであり、箱崎地区の民俗資料として重要なものである。

 
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おしらさま    
オシラサマ(元和年紀)   おしらさま
市指定文化財 昭和53年11月28日指定  

 このオシラサマを佐々木家では養蚕、目、漁業の神様として信仰している。縁日は10月24日、縁日の日に行うことなどは金野家と同じである。

 これには元和10年の年号があって、釜石市で二番目に古く、箱崎白浜地区の民俗資料として重要なものである。

 
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かじがみかけず    
鍛冶神掛図   鍛冶神掛図
市指定文化財 平成18年2月24日指定  

 本鍛冶神掛図は、三宝荒神像を中央上段に、その下には鍛冶場で働く鬼の様子が描かれ、その鬼の背後に幟が立ち、この幟には中央始め四方を守護する諸尊の梵字が印されている。このような図柄はあまり類例はなく、当掛図の特徴といえる。

 本鍛冶神掛図の製作年代は江戸前期頃とみられ、他に所蔵するマイリの仏及びオシラサマと共に行なう山ア家の「ゴヒ(御日)」称する伝統行事と併せて貴重なものである。

 
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