明治三陸津波

 
明治29年6月15日、午後8時過ぎ。人々は、海の方から聞こえてくる大砲にも似た音を聞きました。驚いて外に出た人々が見たのは水しぶきをあげながら迫ってくる巨大な波の壁でした――


 三陸地方を襲い「歴史上第一級」とさえ言われる大津波が発生したのは、明治29年の旧暦の端午の節句の日のことでした。
 明治の頃は「地震が起きたら津波に備える」という発想をする人は少なく、ましてこの時は地震がさほど強くなかったため、津波が間近に来るまで気づかず多くの命が奪われました。


 津波の波高は低いところでも2〜3m、8〜10m程度はまだ普通の方で 、20〜30mを超えるところも少なくありませんでした。公式な記録として残っているところでは、大船渡市の綾里(りょうり)
での38.2mを筆頭に、大船渡市吉浜24.4m、宮古市田老(たろう)14.6mなどですが、さらに当時の人の実体験での話によると、ところによっては標高50mを超えるところまで津波が押し寄せていたと言います。またこの津波は太平洋を横断、ハワイやアメリカ西海岸へも到達し被害を与えています。
被害の概況
町村字名 津波前の人口 死 者 重 傷 軽 傷 生存者
釜石町 釜石 5687 2907 68 243 2780
平田 1299 858 16 292 441
鵜住居村 両石 939 790 12 13 179
鵜住居 712 174 9 20 538
箱崎 930 15 0 2 921
片岸 563 49 3 8 514
唐丹村 大石 323 10 0 0 318
荒川 260 115 2 9 145
片岸 156 98 9 9 58
小白浜 629 475 18 6 154
本郷 873 769 6 3 104
花露辺 294 217 0 13 77
12665 6477 143 618 6229
明治29年7月10日調・岩手県海嘯被害戸数及人口調表より
津波の高さ
町村部落名 津波の高さ
(最大浸水高)
岩手県釜石港大海嘯惨況之図
岩手県釜石港大海嘯惨況之図
明治の大津波があった6月15日は旧暦の端午の節句であったため、津波発生時は一家そろってお祝いをしていた家庭が多かった。また、大槌町では日清戦争から凱旋した兵士の歓迎大会で花火を打ち上げているときに津波に襲われたという。
釜石町 釜 石 7.90
嬉 石 6.90
平 田 7.50
白 浜 7.40
鵜住居村 両 石 13.00
箱 崎 8.50
片 岸 6.40
室 浜 6.90
唐丹村 小白浜 15.10
本 郷 13.50
花露辺 13.80
下荒川 13.00
大 石 12.50
岩手県昭和震災誌より

海岸付近の様子 石応寺
被害を受けた海岸付近の様子(現浜町1丁目〜2丁目 遺体収容所となった石応寺
唐丹村の惨状 樹上より両親愛子の最後を見送る
唐丹村の惨状(風俗画報・大海嘯被害録より) 樹上より両親愛子の最後を見送る(同左)

 明治の津波は一瞬にして釜石、唐丹、鵜住居の人口の過半と家屋総数の4分の3に当たる1,600の建物、漁船漁具のすべてをうばい去りました。亡くなった人のうち遺体を発見し埋葬しえた数は全体のわずか4分の1ほどであったということです。

 また、漁船漁具のすべてが津波によって流されてしまったため漁業はおよそ5ヶ月休業状態となり、漁家の生活は困窮したのでした。

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