公開日 2015年03月06日
更新日 2026年07月16日
釜石は太平洋戦争終戦間際の昭和20(1945)年、7月と8月の2度にわたって連合国軍による艦砲射撃の攻撃を受けました。2度の攻撃で多くの人命が失われ、街は廃墟と化しました。
戦後80年以上が経過し、当時の記憶を語る人も少なくなりましたが、釜石市では再び戦争による悲劇を繰り返すことの無いよう、「釜石艦砲戦災誌」の発行、郷土資料館での資料展示など、様々な機会を使って戦争の記録と記憶を継承しています。

釜石の戦争
釜石は東北で唯一、製鉄所を持つ軍需工業都市だったため、大規模空襲に見舞われることが予測されていました。そのため防空演習や学童疎開など、あらゆる対策を取りました。また高射砲連隊も配置され、攻撃に備えていました。
戦後は市民一丸となって町の再生に取り組み、製鉄所の再興や鉄道の開通などによって、釜石は復興していきました。
艦砲射撃
戦争が激化すると空襲が東京や大阪・名古屋などの大都市から、仙台・盛岡といった地方都市に及ぶようになります。そして釜石は本州初となる艦砲射撃による攻撃を受けました。さらに2度目の艦砲射撃を受けましたが、2度の艦砲射撃を受けたのは本州では釜石だけです。
被害状況(令和7年現在)
捕虜収容所
昭和20(1945)年の終戦時、東北地方には仙台捕虜収容所管理の下、11ヶ所の分所がありました。釜石には第4分所(現 甲子町大橋)と第5分所(現 港町)とが設置されていました。
戦災に関する資料
釜石市郷土資料館では釜石市の戦争及び戦災の資料を保管しております。
ホームページで紹介している資料及び関係資料に関しては釜石市郷土資料館にお問い合わせください。
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