高橋亦助

 高橋亦助は、嘉永6(1853)年、釜石村東前・上の沢の旧家で肝いりだった岩間宇右衛門の三男に生まれました。母はトメといい、理由は定かではありませんが、亦助は母方の高橋姓を名乗りました。

 安政4(1857)年、5歳のとき父と死別し、翌年、当時生家の近くにあった石応禅寺の学僕になりましが、2年で寺を飛び出し、遠野の商家 や釜石の漁家の手伝いなどをしました。明治8(1875)年、亦助22歳のとき、官営釜石製鉄所の求人募集があり就職したのが鉄との出会いとなりました。 明治13(1880)年に操業を始めた高炉操業に従事し、ここで外国人技師や多くの技術者のもとで先進の製鉄操業技術を体得しましたが、官営製鉄所は、技 術・生産工程がずさんであったため明治16(1883)年に閉鎖してしまいます。

 その後、亦助は、平田の戸長、役場書記、沢田回漕店・喜助屋の番頭として働き、このころ、上平田の肝いり、猪又重衛の長女タキと結婚しました。

 明治17(1884)年、この官営製鉄所の払い下げを受け、製鉄所再興に乗り出したのが東京の「鉄屋」田中長兵衛です。彼は、部下の横山久 太郎とともに釜石鉱山田中製鉄所を設立します。この時、亦助は田中に経験を高く見込まれて高炉操業主任として雇われました。亦助は、横山とともに高炉操業 に従事し、度重なる失敗にもめげず明治19(1886)年10月16日、49回目の挑戦でついに出銑に成功しました。以来30有余年、初代所長となった横 山を献身的に補佐し、我が国の製鉄技術を大きく前進させました。

 大正6(1917)年、亦助は監査役に就任、栗橋分工場の工場長となりなりますが、翌年スペイン風邪に肺炎を併発して11月20日、66歳 で亡くなり、その遺骨は石応禅寺に埋葬されました。法名は円祐院殿寿山鉄隆居士。会社は社葬をもって亦助の功績に報いました。釜石市内大町の薬師公園東側 には、高さ5mの高炉を模した亦助の彰徳碑が立っています。