柴琢治

 柴琢治は、慶応元(1865)年、唐丹村代々の医者鈴木三折の二男に生まれました。8歳のとき同村本郷の柴玄昌の養子となり、明治10(1877)年、13歳で家出して上京し開業医の書生や警視庁巡査にもなり、その後大阪で検事の住み込み書生として法律を学びました。

 明治23(1890)年、父の死を機に帰郷した琢治は、兄鈴木太仲の医業の助手をしながら医術の勉強に精進して限地開業の漢方医になりまし た。太仲が大船渡市盛町に移転の後を引き継ぎ、高価な新薬を損得を度外視して用いるなど、慈悲心あふれる診療ぶりで、名声と信望を高めました。

 明治29(1896)年6月15日夜に発生した三陸大津波では、唐丹村は人口2,807人のうち1,585人が犠牲になり、村長も死亡、役 場も流出し壊滅状態になりましたが、琢治は「村長職務管掌」となり、戸惑う村人たちを見事な采配で高台や寺に避難させ、自宅を開放して多数の負傷者を救助 する等、不眠不休の大奮闘で混乱を乗り切りました。

 明治31(1898)年、34歳で村長に任命された琢治は、膨大な村の復興費用を賄うため、国有林1万5,000本を自らの責任で許可なく 伐採・売却し、村を蘇らせました。後日、国有林盗伐の罪により追われる身となり、3年間五葉山中での逃亡生活の末、裁判所から「村にその責任なし」との判 決を受けました。

 明治44(1911)年から県議となり、大正12(1923)年の引退まで沿岸県道の造成や県内中等学校の新設、県水産試験場の釜石設置など、県政においても見事な手腕を発揮しました。

 また、大正2(1913)年4月1日の唐丹村大火災は、津波以来の大惨禍となり、小舟で海に避難途中、突風で妻、長女、姪を含む全員溺死の 悲嘆に遭いながらも、村の復旧に心血を注ぎ、次いで再び襲来した昭和8(1933)年3月3日の三陸大津波においても村中を駆け巡り、村民の救済に奔走し ました。

 釜石の春の観光の代表である「唐丹さくらまつり」の桜は柴琢治の発案で、昭和9(1934)年、大石から花露辺まで2,000本の桜を植樹したものです。昭和22(1947)年8月22日に83歳で亡くなった柴琢治の生涯の業績は、唐丹の桜並木が物語っています。