佐々木福太郎

 福太郎は、慶応元(1865)年、橋野村の肝いり(村長)八十吉、屋号「澤」の長男として生まれました。家業は農業と畜産で、幼少のころから頭脳明せき、将来を期待され大いに信望を集めていました。

 福太郎は、若くして和山に牧場を開き牛馬の放牧を行い、特に馬の品種改良に努力しました。明治28(1895)年には自ら新冠(にいかっ ぷ)御料牧場(北海道)に赴き、種馬アングロアラブ種「喜見川号」を1,200円の高値で買い入れて帰村、優良馬産計画が見事に成功し「吉隆号」など各種 馬を産し、上閉伊郡内の基礎牡馬の育成改良に大きく貢献しました。

 明治29(1896)年、31歳で栗橋村学務委員に就任、同31年岩手県畜産会参事に、同33年大槌産馬組合の組合長の重責を担いました。同34年にはその手腕が認められて36歳の若さで栗橋村の四代目村長に選任されました。

 村長に就任すると、山村経済の発展の原動力となるものは教育であると村民に呼びかけ、学校の新築を議会に提案、橋野、栗林に尋常高等小学校を同時に新築する承認を得て、自ら私財を寄付して近代的な校舎を二校、新築しました。

 明治41(1908)年9月、皇太子殿下(後の大正天皇)が東北御巡行のときに、岩手県畜産功労者8人の内の一人として選ばれ、奉拝の名誉を受けました。さらに、同44年にも第3回岩手県馬匹共進会会長から県内の8人とともに褒賞を受けました。

 また、地域経済の発展のため、養蚕業の普及にも力を注ぎました。しかし、飼育時の防疫体制の幼稚さと飼育技術の遅れから失敗する者が多く、 全財産を失う者が続出。福太郎自身も失敗し、その責任を感じて、大正3(1914)年4月、28戸の希望者とともに、自ら団長になって北海道斜里郡(北 見)朱円村に開拓移住しました。

 朱円村に入植してから数年は開墾事業に従事していましたが、同村を大畜産地にする計画を立て、ウナベツ山麓の払い下げ運動を提唱して村議会 議員に立候補するも落選、2回目に念願の当選を果たしウナベツ山麓牧場用地の払い下げの実現に尽力しました。昭和2(1927)年ごろから病におかされ、 同6年8月15日、66歳で亡くなりました。