工藤大助

 工藤大助は、明治4(1871)年2月10日盛岡市仙北町にて士族である父常象、母ハマの三男として生まれました。石川啄木とは、啄木の母かつが大助の父親と兄妹なので、従兄同士ということになります。

 仁王小学校、盛岡中学校を卒業して、仙台の第二高等学校(現・東北大学)医学科医学部にすすみ、明治28(1895)年卒業、同行助手として宮城病院に勤務しました。

 明治29(1896)年6月15日、三陸大津波発生、釜石は壊滅的な被害を受けました。岩手県からの医師派遣要請により大助は釜石町医とし て嘱託となり、津波後の釜石の医療に従事しました。明治33(1900)年10月、盛岡市岩手病院に転任しましたが同35年、釜石鉱山田中製鉄所所医とし て再び来釜、以後鉱山病院副院長・院長となり、のちには釜石町立病院院長・釜石市立病院院長となりました。また上閉伊郡医師会会長、釜石医師会会長となっ て地域医療の振興に力を尽くしました。

 その間、俳句人としての名声も大いに高まりました。俳号は「俳痴」。大助の句作は、36万5,966句と驚くべき膨大なもので、一日に 1,000句を超えることもあり、没するまでの46年間の句作は、釜石の風物詩と歴史が詠まれているもので、大変貴重なものといえます。釜石で大助の指導 を受けた俳友門人は300人を超え、また、中央の知名俳人、河東碧梧桐や伊藤松宇らとの交友もありました。大助はそのほかに謡曲、篆刻、書、盆栽、楽焼な ど多彩な面で才能を発揮し、晩年は郷土史の編さんにも意欲を燃やしました。

 大助は昭和24(1949)年11月23日、79歳をもって亡くなりましたが、彼の多彩な活動が釜石における文化の土壌づくりに与えた影響は大きく、その偉業は逸することのできないものです。