菊池 熊太郎 

1864−1907

 元治元(1864)年10月、釜石村の「又六どん」という廻漕問屋の十三代目父・又六、母・千賀との間に生まれました。また父親と母親がカトリックの信者であったので、その墓は東京青山のキリスト教徒の墓地にあります。

 明治13(1880)年9月、札幌農学校に入学、明治17(1884)年7月に卒業し、農学士の学位を受けました。釜石では初めての学士でした。

 卒業後、千葉中学校三等教授を経て、明治18(1885)年12月、文部省教員検定に合格し、その後、福島県中学校一等教授となりましたが、翌年に辞職しました。明治20(1887)年9月、私立東京英語学校で教鞭をとりました。

 明治21(1888)年4月には「政教社」を結成し、国民に国粋保存主義を啓豪する評論雑誌『日本人』が刊行され、菊池熊太郎は論文「処世論」を発表し、明治22(1889)年2月、中央大学の前身である私立東京文学院の教授となりした。

 熊太郎には、歴史・地理・理科に関する著書が数種ありましたが、金港発行の『物理学教科書』二冊は「菊池の物理」として有名でした。

 その後一転して実業界に入りし、明治27(1896)年、勧業銀行監査役、大同生命保険会社の取締役・東京支店長となりました。

 明治40(1906)年10月11日、釜石に来ましたが、その翌年の明治41(1907)年9月17日、脳溢血のため45歳で亡くなりました。