荒木田忠太郎

1884-1970

 荒木田忠太郎は、明治17(1884)年12月12日、下閉伊郡甲子村小川の木炭買入所の社宅で父・理七の次男として生まれました。

 明治31(1898)年、釜石尋常高等小学校を卒業しました。(途中、製鉄所の物品販売所で働いていたが、復学している)

 明治33(1900)年、4月から大正元(1912)年まで釜石町役場に勤務しました。その後、昭和4(1929)年まで代書業を営みました。

 大正8(1919)年、労働争議に参加し、先頭に立って田中鉱山釜石鉱業所との交渉を行いました。釜石を震撼させた労働争議は、労働者側の 勝利となりましたが、大正12(1923)年6月5日に検挙、四年間裁判が行われ、騒擾罪として禁錮一年三ヵ月の刑を言い渡されました。

 刑期を終えた忠太郎は大正14(1925)年は、町会議員に当選して政界にでて、町議三期、市議三期、県議三期と地方行政に数々の功績を残しています。

 昭和26(1951)年7月から昭和30(1955)年まで市立図書館に勤務し、昭和33(1958)年から市誌編纂委員として活躍しました。著書に『狼火挙る』『五葉の怪傑』などがあります。

 昭和45(1970)年1月26日、85歳で波乱の生涯を閉じました。

 忠太郎が生前に残した句があります。

 
       辞世の句 一人旅右も左も落葉かな