釜石と戦争
 昭和初期、日本は深刻な経済不況に陥っていました。その状況を打開しようと、武力による大陸進出を推し進めて行き、昭和6(1931)年に満州事変が勃発〔ぼっぱつ〕、翌年には満州国の建国を宣言します。しかし、満州国の建国は国際社会の承認を得られず、日本は孤立していきます。
 昭和12(1937)年、北京郊外の盧溝橋
〔ろこうきょう〕で日中両軍が衝突、日中戦争が始まります。アメリカ・イギリスなどは中国を援助し、戦争は解決の着かないまま泥沼化し、長期化していきました。


 昭和15年、石油などの資源獲得などを目的として、日本は仏領インドシナに進駐〔しんちゅう〕し、翌年には南部インドシナへも進駐します。これに対する制裁としてアメリカは在米日本資産の凍結と石油輸出の全面禁止の措置をとり、イギリス・オランダもこれに従いました。この制裁により日本とアメリカの対立が明確なものとなり、昭和16(1941)年12月、日本は真珠湾に攻撃を仕掛け、太平洋戦争が始まります。


 では、このころの釜石はどんな様子だったのでしょうか?


国内・世界のうごき 釜石のできごと
昭和6年【1931】 ●満州事変勃発
昭和8年【1933】 ●日本が国際連盟脱退
●日本製鉄会社法公布
●三陸大津波
昭和9年【1934】 ●釜石港、開港場となる
●釜石鉱山株式会社、日本製鐵株式会社となる
昭和11年【1936】 ●二・二六事件 ●製鐵所拡大のため中妻。小佐野への社宅移転を計画
昭和12年【1937】 ●日中戦争勃発(盧溝橋事件) ●釜石市制施行 人口4万388人
●釜石で飛行機献納運動がはじまる
昭和13年【1938】 ●国家総動員法制定 ●羽田にて報国168号(釜石号・水上偵察機)献納式
●製鉄所第十高炉竣工火入
昭和14年【1939】 ●国民徴用令公布
●第二次世界大戦始まる
●製鉄所大型工場竣工操業開始
昭和16年【1941】 ●国民学校令公布
●日本軍ハワイ空襲、マレー半島上陸。太平洋(大東亜)戦争はじまる
●魚類の統制により魚市場を接収し、釜石漁業協同組合を設立
●NHK釜石放送局(ラジオ)が放送開始
昭和17年【1942】 ●衣料切符制実施
●米の配給制始まる
●金属回収令
●ミッドウェー海戦
●独立高射砲第34中隊 釜石に駐屯
●函館捕虜収容所第2分所開設
昭和18年【1943】 ●連合艦隊司令官山本五十六戦死
●木炭のほか薪・タキギ配給制となる
●アッツ島日本守備隊全滅
●女子学徒動員決定
●イタリア無条件降伏
●第1回学徒出陣
●鈴子公園の田中、横山銅像壮行式
●石応禅寺菊池智賢銅像壮行式
●函館捕虜収容所第3分所(釜石)開設

【市 制 施 行】

 釜石を表現する言葉に「鉄と魚の町」という言葉があります。その言葉の通り、釜石は製鉄業水産業と共に発展してきた町です。

 明治から昭和にかけて、釜石町は製鐵所の事業拡張と水産業の発達から急速に発展していました。昭和10年に入ると人口も3万人を越え、市制施行が望まれるようになり、昭和12年5月5日、岩手県では盛岡市についで2番目に市制を施行し、『釜石市』となりました(当時の世帯数:7,700戸、総人口:40,388人)。

市制施行を祝う釜石市民
市制施行を祝う釜石市民
釜石号 報国168号(釜石号)・水上偵察機

市制施行を記念して飛行機の献納運動が起こり、翌年3月、報国第168号(釜石号)として献納されました。
当時は民間による飛行機等の献納運動が盛んに行なわれていました。

【 戦 時 体 制 へ 】

 大正から昭和初期まで続いた経済危機のため、鉄鋼業界も不況にあえいでいましたが、満州事変以降再び鉄の需要が拡大すると好況に転じます。
 日本が戦時体制を強めていく中、鉄の安定した供給が求められるようになり、官営八幡製鉄と釜石製鉄所も含む民営の製鉄所が合同し、昭和9年2月1日、日本製鐵株式会社が設立されました。

 釜石製鉄所も拡張計画が進められ、構内にあった社宅街を中妻、小佐野・小川地区へ移転して工場用地を広げ、昭和13年には第10高炉竣工火入れ、同15年には日産400トンの大型工場が始業するなど設備・生産の増強が図られました。

 日本が軍事色を強めていく中、市民生活も戦時色一色となっていきました。
 昭和16、17年頃から米やみそ・しょうゆなどの食糧、衣類などの生活必需品が配給制になり、男性は坊主頭に国民服・巻脚絆姿が、女性はひっつめ頭にして和服を改造した標準服にもんぺ姿が一般的になっていきました。

 食糧は米の配給が減少してくると、米に芋や豆を混ぜて炊いたものや、昆布を細かく刻んだものを混ぜて炊いた“メノコめし”などが食べられるようになっていました。各家庭では家の周りや空き地を利用して小さな菜園を作り、食糧増産に励んでいました。

 人々は、男女別、各年齢層によって動員されていきます。成年男性は大半が兵隊として出征し、残りの人々も徴用工として、産業報国隊員として製鉄所などの工場で働かされたり、警備隊や消防隊などへ動員されたりしました。成年女性は大日本婦人会の会員となり、出征兵士や各職場の激励、慰問などの活動をしました。学生たちも例外でなく、勤労学徒として製鉄所等の工場へ動員されていきました。


 また、製鉄所や鉱山などでは、人手不足をおぎなうため、連合国捕虜や中国・朝鮮半島の人々も作業に従事させていました。
もんぺ姿の子ども達
もんぺ姿の子ども達
捕虜収容所 連合軍捕虜収容所

釜石には仙台捕虜収容所第4分所(大橋)、第5分所(釜石)が設置されており、捕虜達は製鉄所や鉱山での厳しい労働に従事させられていました。
彼等のうち33人が栄養失調や衰弱、病気により亡くなり、そのほか35名が艦砲射撃によって亡くなっています。

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