釜石市の鳥瞰図(ちょうかんず)    教育委員会 生涯学習スポーツ課
       文化財調査員 森 一欽
釜石線開通記念・釜石市鳥瞰図
釜石線開通記念・釜石市鳥瞰図

 この資料は釜石線開通時、昭和25(1950)年ころの釜石の鳥瞰図です。絵の右上には、仙台、東京の字が書かれていて、釜石線のおかげで東京まで行けることを強調したのかもしれません。作者は吉田初三郎氏で、資料館にはこのほかに、昭和28(1953)年ころの鳥瞰図と港からの鳥瞰図があります。

昭和28年頃の釜石市鳥瞰図
昭和28年頃の釜石市鳥瞰図
釜石市鳥瞰図(港から)
釜石市鳥瞰図(港から)

 吉田初三郎氏は明治16(1884)年に京都に生れ、友禅の図案の職工などをした後、 洋画家を目指して関西美術院長の鹿子木孟朗に弟子入りします。氏の最初の鳥瞰図は鳥瞰図「京阪電車沿線名所図絵」で大正2年に描かれました。それ以後1,000点ともいわれる鳥瞰図を描いております。氏は昭和30(1955)年に亡くなりますので、釜石線開通と昭和28年ころの鳥瞰図は後期のものになります。

 なお、中央部を細かく描写し、左右の端をU字型に折り曲げ、実際には見えない遠景をパノラマ風に描き込んでいるこの構図を 「初三郎式鳥瞰図(ちょうかんず)」と呼ぶそうです。

釜石の鉄道史
  〜官営釜石鉱山線廃業から釜石線の開通まで
洞泉橋
 釜石における鉄道は、官営釜石鉱山線の廃業以降、田中長兵衛が製鉄所の払い下げ、田中製鉄所として再出発を図ると、明治26(1894)鈴子大橋間に馬車鉄道を開通させました。
 その後明治43
年に軽便鉄道法が公布されると、明治44年5月13日には
釜石鉱山専用汽車鉄道(社線)が敷設されました。

 また、大橋の採鉱輸送を目的とした桜山運鉱線が大正2年か3年ころには完成しています。そのアーチ橋梁及び隋道跡が国道283
号の仙人大橋付近に残っています。

 一方、花巻―仙人峠駅間には金田一勝定氏を社長とする岩手軽便鉄道株式会社が明治4410月に発足し、大正4年11月に岩手軽便鉄道が開通しました。

 しかしながら、難所である仙人峠は索道が大正2年に建設されたものの徒歩でした。
 

 
その後、国会でも「山猿論争」や「我田引鉄」と物議となった原敬・小野財閥の山田線と清岡等(当時盛岡市長)・金田一財閥の花釜線の建設が論争となりましたが、結局大正12年10月10日に盛岡〜上米内間に山田線が開通し、昭和14年9月17日には釜石までの営業を開始しました。ちなみに、盛岡〜釜石間は73のトンネルを抜け、約6時間の道程で、乗った乗客は降りるころには顔が真っ黒だったそうです。

転車台  当時は蒸気機関車で、方向転換するために転車台が必要でした。釜石駅にも山田線開通時に設置されました。
 当初は小型でしたが、昭和24
年に大型の下路式転車台となり、駅の北側に現在でも残っており、銀河ドリーム号の転車に使われています。



 
一方の花釜線は、山田線や笛吹峠の県道開通により昭和19年に国鉄釜石東線が開通するものの計画が見送られてきました。しかしキャサリン・アイロン台風のため釜石が陸の孤島状態になったのをきっかけとして、昭和23年にGHQから鉄道省に釜石線復旧等の覚書が提出され、昭和25年10月10日に全線開通となりました。

 JR陸中大橋駅―上有住駅間の7.6kmは釜石線において一番の難所です。

 第一(約2
km)・第二大橋トンネル(1.28kmと唄貝トンネル群、土倉トンネル(2.975km)とほとんどがトンネルとなっておりますが、第二大橋トンネルと唄貝トンネル群の間に、鬼ヶ沢橋梁が架かっています。この橋梁は総長105m高さ55mトラス型鋼橋で、JR東日本管内で最も高所に架けられた橋梁です。昭和23年に運輸省の設計監理の下、西松建設により施工され、1100万円をかけて25年に竣工しました。

鬼ヶ沢橋梁




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