嘉永6年(1853)、ペリー提督の率いる4隻の黒船が浦賀に上陸し、日本とアメリカとの通商条約の締結を要求しました。
当時、江戸幕府の海防参与の立場にあった水戸藩主徳川斉昭は、黒船に対抗できる西洋式大砲を鋳造するため、水戸藩内に反射炉の築造と操業を命じました。御側用人の藤田東湖は、兵法、砲術を体得し、採鉱、精錬などの学問を修めていた大島高任を主任技術者として招きました。高任はこれに応え、反射炉の築造と操業に成功はしたものの、砂鉄を原料とした大砲では西洋の優れた大砲に遠く及びませんでした。そこで高任は鉄鉱石を原料とする洋式高炉の必要を感じ、水戸藩より100日の休暇を得て帰藩し、高炉築造の場所として選んだのが良質の鉄鉱石が大量に埋蔵する南部領でした。これが日本の製鉄の近代化の幕開けとなったのです。 |

水戸那珂湊反射炉
(復元) |
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