国・県指定文化財
国指定 橋野高炉跡 三貫島
県指定  紙本 両鉄鉱山並高炉之図(2巻) 刀 銘 新籐源義國
星座石、陸奥州気仙郡唐丹村測量之碑 栗林銭座跡
木造十一面観音立像 
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国指定文化財
はしのこうろあと
一番高炉跡
↑ 一番高炉跡

橋野高炉跡

国指定史跡 昭和32年6月3日指定

 安政5年(西暦1858年)から翌6年にかけ、大島高任の指導によって建設され、南部藩が経営したもので、鉄を洋式高炉によって精錬し、我が国初近代鉱業発達史上、誠に貴重な遺跡である。

 三基の高炉跡のほか、水車場跡や御日払所そして山神社跡なども確認され、その遺構は当時の稼動状況・経営状況までも示し、その価値はきわめて高いものである。

二番高炉跡
↑ 二番高炉跡
三番高炉跡
↑ 三番高炉跡
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さんがんじまおおみずなぎどりおよびひめくろうみつばめのはんしょくち
三貫島オオミズナギドリ及びヒメクロウミツバメの繁殖地
三貫島
巣穴に入っているオオミズナギドリ
巣穴に入っているオオミズナギドリ
国指定 天然記念物 昭和10年12月24日指定

 三貫島は釜石港の北東11km、御箱崎東南1キロの所にある暖帯性植物が茂る無人島で,オオミズナギドリ・ヒメクロウミツバメの繁殖地である

オオミズナギドリはミズナギドリ科最大の海鳥で、背部は灰色、体の下面は純白、頭部は褐色の斑点があり、翼長30センチ程である。
 早朝未明に島を飛び立ち、太平洋で小魚等を求め、夕方日没頃に巣に戻るが、島に来るのは23月頃で、巣穴は径2030センチ、長さ15メートルもある横穴で、67月ころに巣穴の奥で産卵し、ひなを育て初冬の頃に一斉に島を去っていく。

ヒメクロウミツバメは、島の東端の岩場に営巣していて、巣穴は径10センチ内外で、時にはオオミズナギドリの古巣を利用するといわれる。島には5月頃来て産卵し、10月頃南へ去って行く。

島はタブの木を主とした原生林的な趣があってこれら海鳥とともにクロコシジロウミツバメやウミウも繁殖していて、鳥類の楽園ともいうべき良好な環境である。

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県指定文化財
しほん 
紙本 両鉄鉱山御山内並高炉之図 両鉄鉱山御山内並高炉之図
県指定文化財 昭和49年2月15日指定

 文久元年西暦1861年)頃、我が国近代製鉄初期の精錬技術をはじめ、製造工程、設備の概要、就業状況など詳細に記録したもので、国の史跡指定を受けている橋野高炉を中心として和紙にまとめて記載された絵図絵巻で、南部藩お抱えの絵師が南部藩に業務報告として画かれたものと思われる。

両鉄鉱山御山内並高炉之図 両鉄鉱山御山内並高炉之図
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かたな
(銘 新籐源義國)
県指定文化財 昭和53年4月4日指定
 長さ68.3センチ、反り2.0センチ、鎬造庵棟。刀身は少し細く、小切先、反りは普通、腰元には踏張りごころが見られる。地の鍛えは板目で、ところどころ太く肌立つ。刃又は焼幅の広い大互の目乱れで荒めの沸がつく。切先の刃ははきかけて小丸で、小返りである。茎は生ぶで「新藤源義國」の銘を刻む。 制作は江戸時代の中期で、新藤家二代目義國の代表作である。 刀
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せいざせき、むつしゅうけせんぐんとうにむら そくりょうのひ
星座石、陸奥州気仙郡唐丹村 測量之碑
↓ 星座石
星座石
↓ 測量之碑
測量の碑
県指定史跡 昭和60年12月27日指定

 江戸時代の地理学者である伊能忠敬が幕府の命により、享和元年(西暦1801年)に伊豆から東北にかけて海岸線を測量、その年の9月24日、唐丹の地に至り、北緯39度12分と測量した。

 文化11年に唐丹の天文地理学者葛西昌丕[かさい まさひろ]が、忠敬の業績を記念して碑を建立した。このような碑は全国に忠敬がその足跡をとどめている中で唯一のものであり、日本の科学史上注目すべき碑となっている
 また、葛西昌丕は測量之碑を建立するとともに、北緯の度数を中心に黄道十二宮と、十二次といわれる星座名を交互に配列、石に刻して残した。

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くりばやしぜにざあと
栗林銭座跡 栗林銭座跡
県指定史跡 昭和62年3月6日指定

 この銭座は、南部藩が砂子田源六の建言により、外川目(現在の大迫町)の分座として、慶応3年5月、幕府の許可を得て建てたところである。

 構内の面積14,933u、構造は高炉式を採用し、吹き立ての動力は、直径約6mの水車を用い、20ヶ所の型場を備え、明治元年5月生産を開始したが明治2年12月明治政府から銭座禁止の命令を受け休山した。
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もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう    
木造十一面観音立像    
 県指定文化財 平成24年11月13日指定    

 室町時代後期の永正7(1510)の像背銘を持ち、釜石・上閉伊地区における最古の年号を持つ中世仏像。おおらかさと同時に簡素にして森厳な雰囲気とを表現しており、カミとしての仏を祀るみちのく中世の精神世界を表現した優れた尊像として貴重である。

本来この観音像は、明治以前は一段上の鵜住神社の地に祀られていたもので、津波で壊滅した鵜住居市街地とそのすぐ上に無傷で鎮座する鵜住神社(もと観音堂)との対照的な光景が意味するものは大きい。
観音堂はもともと安全な位置に建てられ、参道は避難路に、祭礼は自然に避難訓練になっていたものであり、社堂とその広場は避難所ともなる。事実多くの市民が鵜住神社に上がり難を逃れた。
災害から地域を守る古来の知恵を、記憶継承する文化財としての意義は大きい。

   
     
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