艦 砲 射 撃
 釜石製鐵所という屈指の軍需工場を有する釜石市では大規模空襲対策として、待避施設や消防水利の強化、防空壕の構築など防空体制を整えていきました。主な官公庁・学校・目標になりやすい大きな建造物には迷彩が施され、各家庭では窓ガラスに飛散防止のための紙テープを貼り、門口に防火水槽などを備え付けていました。また、昭和20年には国民学校初等科の児童がとなりの遠野を中心とした地域へと集団疎開しています。


 昭和20(1945)年7月14日、釜石は本州初の艦砲射撃を受けました。
12時10分から始まった砲撃は14時10分まで続き、この日だけで2,560発もの砲弾が打ち込まれました。
 製鉄所を中心に砲撃が集中し、鈴子・只越地区、嬉石・松原地区が大きな被害を受けました。避難した市民の中には砲弾の破片や爆風で死傷する者、壕の崩壊で圧死する者が相次ぎ、さらに火災が発生し、街は焼野原となりました。


 製鉄所も復旧の見通しがつき、焼野原になった町に人々の生活が再建されはじめていた8月9日、釜石に対して2度目の艦砲射撃が実施されました。米英両国の艦隊によるこの日の砲撃は12時47分から14時45分まで続き、2,781発以上の砲弾が打ち込まれました。
 この2度目の艦砲射撃では再び製鉄所が攻撃されたほか、中妻や小川・小佐野の社宅街が被害を受けました。また1回目の艦砲射撃で被害の少なかった大渡・東前近辺が火災により焼失し、多くの住民達が犠牲となりました。

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